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総合政策学部 総合政策学科

中国杭州を行く

2018.10.16
総合政策学部教授 文 慶喆

 上海から杭州までの道は遠かった。たった200kmしか離れていないこの道は上海市内での高速道路の大渋滞に会い、なかなか進まなかった。停まっているバスの車窓から見ると世界のあらゆる自動車メーカーの車が集合していた。中国も益々車社会になり、渋滞時の高速道路はまるで駐車場の様だった。しかし、上海と杭州は中国のどこの都市よりも交通網が整備されている。中国最強の高速鉄道ではたった40分で結ばれているし、高速道路でも「杭州湾海上大橋」は全長が36kmで世界最大規模を誇っている。今回は杭州での日程を考慮し貸し切りバスでの移動だったが、着くまで5時間も要した。

 今回の「中国研修」日程の中で「杭州」への旅に出た。「杭州」は日本では一般的に「こうしゅう」と呼ぶが、別の都市「広州」と区別するため「くいしゅう」と呼ぶこともある。勿論中国語では「ハンジョウ(hanzyou)」となるので、広州との区別には困らない。杭州は歴史的な古都で、北京、上海と中国三大観光都市とも言われている。

 この「杭州」が西洋に知られるようになるのは、かの有名なマルコポーロの『東方見聞録』である。ヴェニスの商人マルコポーロは1271年から24年間もアジアを旅する。その時に杭州に立ち寄ったのである。杭州を見たマルコポーロはあまりにも感動し「世界のどこの都市よりも美しく、高貴な都市である」と大絶賛した。マルコポーロは中国の色々な都市を回り元の首都である「大都(今の北京)」にも寄ったが、杭州に関する記述は『東方見聞録』文庫本の15ページにも及んでいる。

 マルコポーロが立ち寄ったこの杭州は南宋の絶頂期の都であったが、訪れた時は「元」に亡びられた後であった。宋の時代は不運にも北方の異民族の国によって常に脅かされていた。宋の都は元々「開封」にあったが(北宋)、その北にある異民族の強力な国「遼」に攻められ、開封は陥落された。仕方なく都を杭州に移した(南宋)。杭州は事実上の南宋の都であったが、プライド高く「臨安」と名付けた。その時の南宋の領土は非常に狭く黄河の南に限られ、北方の異民族に常に脅かされ軍事力も強くなかった。しかし、文化的、経済的には中国の歴史上繁栄を極めた。

 英国オックスフォード大学のスティーブン?ブロードベリー教授の分析によると、南宋の一人あたりGDPは1000ドルを超え世界一の経済大国だったという。鉄鋼生産量は12万5千トンを超え、イギリスがこの水準に達すのにその後400年もかかった。しかし、中国の経済力はその後低迷の道を辿り、1300年頃にはイタリアに越され、1400年までオランダとイングランドに、1800年頃には日本に越されてしまった。幸運にもマルコポーロが杭州を訪れたときにはその名残が残っていたのである。

 上海から杭州までの5時間の道程は、私には返って幸運な時間であった。南宋の時代へとタイムスリップし、空想の世界に浸ってしまった。

 私達は杭州に着くなり早速景勝地の「西湖」を訪ねた。小雨で天気は良くなかったが、とても美しい風景に心を奪われた。マルコポーロもきっとこの風景を見たのであろう。『東方見聞録』に記述した世界一美しいという形容は、この「西湖」のことではないだろうか。



杭州の景勝地「西湖」