国見夢物語(2)
2018.09.02
総合政策学部教授 秡川 信弘
総合政策学部教授 秡川 信弘
いうまでもなく、「国見テラス」の「国見」は私たちのキャンパスが立地している里山の名称である。そこで学ぶ私たちは足元の地理や歴史に対してどれほどの関心を持っているだろうか。ある種の感動を覚えたキャンパスやその周辺の風景もいつの間にか見慣れたものとなっている。確かに、慣れるということは悪くない。息の詰まる授業が楽に聞き流せるようになり、固い椅子に座ることもさほど苦痛ではなくなる。だが、「慣れ」によって人は気づかぬうちに自らの感性を鈍らせていく。
過剰な期待と愛情から英才教育を望んだ父と弟を偏愛する母の下、波瀾に富んだ青春時代を過ごした青年がある施設に逃げ込んだ住民を虐殺するという事件を引き起こしてしまう。事件当日、彼が書いた手紙には女子供も含む千人を屠ったと記され、翌日の手紙にはその数は二百人余りであったと修正されているという。その数的乖離は「生命の尊厳」に対する冒涜を意味するものなのだろうか。もちろん、そんな物騒な事件は平和を謳歌する現代の日本とは無縁だが、天正十三年閏八月二七日(グレゴリオ暦一五八五年十月一四日)に起きたその事件(小手森城の撫で切り)は史実であるとされ、「戦国時代」という背景の下で領民を守ろうとするリーダーの合理的判断があったと考えられている。
山岡[一九七〇]は、「秋祭りを領民とともに祝う」ことを願い、立毛中の農地を荒らす戦の終結を父輝宗に進言した一五八二年六月三日の政宗の挿話により、同年八月二日の「本能寺の変」で斃死した信長との違いを際立たせたものの、若き政宗の残虐性を看過したわけではなく、父の弔い合戦で私怨を晴らす鬼畜と化した政宗を描いている。しかし、仮に、政宗の真意が農的国家の平和を実現することにあったとすれば、後に摺上原合戦前哨戦の高玉攻めで軍功を挙げて伊達家重臣となる大内定綱と結託し、外交交渉を有利に進めうる「撫で斬り」事件を協働創作したという解釈も成り立つのではないだろうか。
一五八八年五月、小手森城は当時の城主石川弾正自害の噂とともに落城し、戦略拠点としての価値も失い廃城となった。彼の地を訪れると、交通の要衝という地の利を活かして二本松、三春両藩における幕末期の財政逼迫を救済するほどの豪商を生んだかつての経済的活力は感じられないが、小手森城址の残る里山にはのどかで自然豊かな風景が広がり、国見の里山と同じように、私たちが取り戻すべき何か大切なものが、そこに隠れているように思えてくる。
【参考文献?引用文献】山岡荘八[一九七〇]伊達政宗(一)朝明けの巻、毎日新聞社。東和町[一九八三]東和町史 第1巻通史編、千葉真弓[二〇一三]独眼流政宗 第五五話 凶風小手森城?前後編、河北新報。