巨星墜つ:戸塚秀夫先生を偲ぶ
総合政策学部教授 貝山 道博
最近戸塚秀夫先生からお手紙をいただいた。封書の裏にご本人のお名前と息子さんと思われるお名前が記載してあった。今では先生とは年賀状だけのお付き合いであるが、近年1カ月遅れで寒中見舞いをいただくのが恒例になりつつあった。今年もそうかな?それにしても息子さんのお名前はどうしたのかな?と思いつつ封を切った。
そこには戸塚先生からの寒中見舞いの手紙と息子さんからの先生のご逝去のお知らせが入っていた。思いもしなかったことに愕然とするばかりであった。
昔の左翼仲間にとっては、いや当時を知る誰にとっても「戸塚秀夫」は忘れえない存在であろう。ご本人の研究もさることながら、政治的活動を含めて精力的な活動ぶりには驚嘆すべきところがあった。
先生と専門をまったく異にする私にとっては、先生が東大社会科学研究所を定年退職後埼玉大学経済学部教授として勤務された5年間(1990-95年)、同じ職場で仕事をともにさせていただいた仲間の一人ということになる。
当時大学院を作ることが我々の悲願であった。いろんな壁にぶち当たり、頓挫しかけていた時、先生から「文部大臣に会ってみる気はないか」と問いかけられた(当時の文部大臣は故鳩山邦雄氏)。先生のアドバイスを受け入れ、先生のお膳立てで文部大臣への直訴が実現した。結果、事はスムーズに運び、念願の大学院開設となった。
当時は珍しかった夜間主コースを持つ昼夜間開講制の大学院としてスタートさせたが、社会人中心であるだけに、教育?研究をどのように行っていくかについて、我々の中では必ずしも明確ではなかった。そのときにも先生から良いアドバイスをいただいた。先生は「社会人を対象にするからこそアカデミズムが重要である」ことを強調されていた。事実大学院はこの方向に沿って社会人教育を行っていった。現在大学院は本校のみならず、東京駅日本橋口にある「サピア?タワー」の一画にサテライト「東京ステーション?カレッジ」も有し、博士前期?後期課程のフル?セットを持つまでに至っている。改めて先生のお導きに感謝申し上げたい。
先生は学内外の様々な人と良く交流されていた。労働問題の研究者であったからかもしれないが、「大学」に拘ることもなかった。埼玉大学定年後「国際労働研究センター」を設立され、在野の人々と労働問題について共同研究を続けられたことは、そのことを証拠づける。当時私たちにセンター設立構想を活き活きとお話しになられていたことを懐かしく思い出す。
一度お住まいの南箱根のお住まいに招かれたことがあった。そのとき、先生の一端を窺える2つのことに出会った。一つ目はトイレに旺文社の英単語集(いわゆる「豆単」)を置いてあったことである。先生は学生時代東大農学部門前の警視庁富士署でGHQ相手の英語の通訳をなさっていたことから窺い知れるように、国際派の先生は英語が堪能であったはずだが、常にその訓練を怠らなかったようである。だいぶ手垢がつていたので、まめに使いこなしていたと思われる。
二つ目は、お父上のご遺影を長押に飾ってあったことである。そのこと自体当たり前のことだが、海軍の制服を纏ったお写真であったことに驚きつつ、内心ほっとしたたことを覚えている(お父上は有名な海軍中将でした)。先生のリベラリストとしての一面を窺い知ることができたからなのであろう。
先生からいただいた寒中見舞いには、「残された時間もいよいよわずかになりました。???いま振り返りますと、皆様からの叱咤激励、批判と共感の言葉が私の人生の宝だったと気づき感慨無量です。永年のご厚誼ありがとうございました。」と記されている。まさに辞世のお言葉である。この期に及んでの先生のご丁寧なこのお言葉に先生のお人柄がよく表れているように思う。先生にお世話になった一人として、このような過分なお言葉をいただき、ただただ恐懼するしかない。まさに「巨星墜つ」である。ただただご冥福をお祈りするばかりである。
先生ご自身が2011年4月から少しずつ書かれてきた「戸塚秀夫自選集」(未完のまま絶筆)をインターネット上で見ることができる。これにより戸塚秀夫先生の生きざまを知ることができる。ご関心のある方はご覧いただきたい。