跳ねる木
総合政策学部教授 三木 賢治
就学前、祖父に連れられて菩提寺で御詠歌を習っていたことがある。仏心などあろうはずもなかったが、寺は東京?麻布の裏通りにあったので、帰りに祖父と寄り道するのを楽しみに通ったものだった。ある日、達筆で鳴らした住職から「学校にあがる前に覚えておきなさい」と苗字の三と木をはじめ簡単な漢字を教わった。住職は半紙に墨痕鮮やかな手本を書いてくれた。
一年生になって間もなく国語のテストがあった。平仮名を漢字にする設問で「き」が出たので、勇躍、手本通りに書いた。ところが、返却された答案には、木に×印が付いていた。縦棒を跳ねたのが間違いとされたのだ。担任からは、大地に根を張っている木の幹の根元が跳ねていてはおかいしい、と指摘された。
ショックだった。自信を持って書いたのに……。手本が恨めしかったが、毛書体では縦棒を跳ねるのも自然な運筆と後に知った。
複雑な顔をして推移を見守っていた祖父の言葉に、生き方を規律されることになった。「何ごとも自分で調べて確かめろ、という教えだね」。祖父はそう言って、分厚い国語辞典を買ってくれた。以来、些細なことも辞書類を引いてみる癖がついた。今も国語辞典を日に十数回も開くのは、木の縦棒を跳ねたおかげと意義深く考えてきた。
今年二月、文化庁の文化審議会が手書きの漢字は「とめる」や「跳ねる」の違いで正誤を判断せず、幅広い字形を認めるとの指針をまとめた。未と末、土と士のように長短で別の字になるのでなければ、はらってもはらわなくても、跳ねても跳ねなくてもよい。木の縦棒を跳ねてもよいのだという。
――そんな馬鹿な。パソコンの普及で印刷文字の字形だけが正しいと誤解されている風潮を改める便法だというが、正誤を安易に変更してよいものか。それよりも、これまでよすがとしてきたものは何だったのか。自分を否定された気がして、テストで×を付けられた時以上にショックだった。
幼い日々に暗記した事柄で、時代の進歩と変化で間違いと化したものは少なくない。ビルマはミャンマーに、カルカッタはコルカタとなった。水金地火木土天海冥のうち冥王星は惑星でなくなった……。だが、それぞれに根拠があり、淵源や由来をないがしろにした変更ではない。
漢字のとめ、跳ねをルーズにすると、円周率を3と教えた時にも似た轍を踏むのではないか。浅慮、安直な世相が危うくてならない。