臨渙(1)
総合政策学部 准教授 王 元
今回は2013年12月6日の「国見テラス」に私が掲載した「王侯将相寧ぞ種有らんや」の続編にあたる。
我が故郷安徽省臨渙(鎮)は古代の名称で「銍」でした。春秋時代、宋国の銍邑となり、秦の時代は沛地方の銍県となりました。「銍」とは麦を刈る鎌という意味です。つまりこの一帯は中国の麦の蔵ということでした。
現在の地名「臨渙」になったのは「渙水」という河に面しているからだ。三国曹魏の時代、「建安七子」の一人陳琳は魏の文帝(曹丕)あての書の中で「渙水は紋が五色と成り、両岸に才人が多出し、その水勢は曲折で深秀、画本と為ること堪るため、その名を繪と改める」と提議しました。今は「澮」だが、元々は糸偏の「繪」であったのです。しかし、時代によってそれ以前の渙水と呼ばれたり、一定ではありませんでした。そもそも現代の名称、臨渙という名は南北朝の梁武帝(蕭衍)のとき、渙水に面しているので臨渙郡としたということです。
臨渙は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく漢代からそれほど大きな変化はありません。行政区画から見る場合は、秦のとき県に制定され、魏晋南北朝時代に郡へと昇格されました。
秦、漢、魏晋三代は故郷臨渙にとって、最も栄えた時期かもしれません。確かに漢代にここ沛国は劉邦の故郷であり、魏晋のときここ譙国は曹操の故郷であった。かなり繁栄ぶりを見せてくれました。陳琳上魏文帝書に見られるようなことはその証拠でしょう。
経済の面から見れば、臨渙は春秋時代に市場が出来、物資交換の場となりました。秦漢の時代は更に進化し売店のようなものが出来てマーケットとして機能し始めたのです。隋唐の時代、地方の貿易中心地としての役割を果たしていました。当時臨渙にはそのような商店街の路地が八つも網目状に入り組んでいました。
元明清時代は昔ほどではありませんが、依然として河南、安徽、江蘇三省の重要な商業地でした。しかし、この長い間、臨渙の商売人でいえば本省人より、外省人のほうが多かった。そしてその中では特に山西、山東、と河南人が多くいました。という理由から臨渙には山西人会館と福建人会館があります。
隋の時代、県に降格され、譙郡(亳州)に属することになりました。臨渙の衰落が決定的になったのは元世祖フビライ(蒙古帝国第6代大汗にして元朝初代皇帝)のときでした。至元2年(1295年)県より下位の「郷」のままで鳳陽府(後の明太祖朱元璋の故郷)の管轄下になりました。清乾隆55年(1790年)には少し昇格され、「分州」となって、宿州の管轄下に戻りました。宣統(溥儀)3年(1911年)、また「鎮」に降格され、今日に至ります。