木の声、土の歌(8)
総合政策学部教授 秡川 信弘
現金のために2.5acreを耕やしたソローは、「問題自体よりもずっと複雑な公式」(飯田、63頁)を使って問題を解こうとしたのではないと、どうすれば論証できるのだろうか?
彼の説明に従って、当時の賃金水準が「1日平均1ドル」(飯田、p.60)であったとすれば、生活費を差し引いても2週間も働けばよかったはずである。彼には測量や大工などの日雇い仕事で「13ドル34セント」(飯田、p.107)を稼ぐ能力が備わっていたのだから、他にいくらでも仕事はあっただろうに、なぜ割に合わない農業に敢えて取り組んだのだろうか。
彼の「実験」から百二十数年後、生意気盛りの男子中学生たちが教室で交わす話題も矛盾に満ちていた。例えば、創刊されたばかりの「少年ジャンプ」と激化しつつあった「ベトナム戦争」。ジャンプはそれまでの少年週刊誌にはない迫力を感じさせてくれたし、ベトナム戦争は無抵抗の村人たちが武装兵士に殺された「ソンミ事件」のような残虐さに対する憤りを介して、米国内で高まる反戦運動や公民権運動の凄まじさをリアルタイムで実感させてくれた。中学時代の私の記憶は永井豪や本宮ひろ志とともにテト攻勢、キング牧師、ロバート?ケネディ、ホー?チ?ミンなどの固有名詞で彩られている。
その頃の私たちは終業時のホームルームで自薦曲を合唱していた。ある日、「?走れコウタロー」というフォークソングを歌っていたら、突然、担任の先生が怒り出した。私たちの中学では音楽の授業外の時間に教室で「歌う」ことが規制されていて、その叱責は「不謹慎」を理由に「合唱を中止させないための芝居だった」ことを後になってから聞かされた。
授業はどれも興味深かったが、当時の私には窓の外を流れていく雲を眺め、教科書に落書きすることも同じくらい楽しかったし、こっそり教室を抜け出す開放感は心躍るものだった。
ある秋晴れの日の午後、仲のいい友人たちと一緒に学校の裏山にエスケープし栗拾いをした。翌日、国語の時間に詩を書く機会が与えられた。科目担当の先生が何を書いてもいいと言うので、その栗拾いの話しを書いた。数日後、私の詩が模造紙に書き直され、教室に貼られていた。
その年の冬、授業中の私は相変わらず「聞く」、「見る」、「描く」の選択に迷っていたが、「出る」という選択肢は減少しつつあった。その主因が雪と寒さにあったことは間違いないのだが、原因はそれだけだったのだろうか。今も当時のことがなつかしく思い出される。
【参考文献】HDソロー?飯田実訳『森の生活(上)』、岩波書店、1995年。